今月の言葉(2019年度)
2019年4月の言葉 空を見上げ 雲を 月を 星を・・・
空を見上げ 雲を 月を 星を 大地を見つめて 足元の虫や草花を 山を仰ぎ 移り行く季節を 鑑賞することで 「私の存在を」認識し 感性を養おう
私たちはゆっくりと空を見上げたことがあるだろうか。だれもが一週間、一月(ひとつき)、一年が瞬く間に過ぎると口にする社会である。何故だろうと考えた時、時間に追われ慌ただしく働いてる自分がいることに気付く。休みを取っても、どこかに出かけると1日がアッという間に過ぎる。何もしないで1日をゆったりと過ごすことが出来ない体になってしまっている。そんな環境から抜け出さない限り「私の存在」を認識することなど出来ない。
私は、夜空を見上げて星を眺めることを習慣にしている。最近はスマホで夜空の星にかざすとその星の名前が表示される便利なアプリがある。是非試して見て下さい。きっと星を眺めることがすきになりますよ。
2019年5月の言葉 ひとが生きるとは 与えられた宿命をおのれが選び取ったものとして歩み続けること
人生とは、人として生きることである。人としてどのように生きるかは、自分自身が考え、判断し、決めなければならない。自分が選択した生き方を宿命として受け止め、日々努力を重ねることである。他人と比較して優劣を競うものではない。努力が報われるとは限らない。むしろ報われないことの方が多いかもしれない。しかし、報われなかったからといって他を恨(うら)やみ嫉(そね)むのはお門違いである。
評価されようがされまいが、自分の信念に従って粛々と生きることである。人生には正解はない。「論語」には、15にして志学、 30にして而立、40にして不惑、50にして知命、60にして耳順、70にして従心とある。このことは今の時代においても当てはまることだと思う。30歳は一人前の大人として社会で生きていくことが出来なければなりませんし、40歳はそれまでの経験を生かして確固とした人生を築き上げる。40歳になっても迷っているようでは困ります。そして50歳で天命を知る、自分がこの世に生まれてきた使命、つまり己の宿命を知ることです。そこから先はただひたすら宿命に従ってい命ある限り生き抜くことだと思います。
さあ、令和が始まりました。心新たに明日に向かって生きようではありませんか。
2019年6月の言葉 尊敬できる人に出遭い その人のためならすべてを擲(なげう)っても悔いはないと思える人生
両親のもとに生まれ、家庭という環境の中で社会に出て一人前に生きていくすべの第一歩を歩み出す。学校、地域社会、職場とその時々で様々な出会いがある。自分の人生という船の船長は自分である。航路を決めるのも、速度を決めるのもすべて自分の責任において行わなければならない。
人生という未知の世界を進む上で、その人のためならすべてを擲っても悔いはないと思える人との出会いがあったら迷わず師と思い共に歩むことである。その人は様々な苦難に遭いながらも挫けず生き抜いて来た人である。決して威張らず、誇らず、黙々と自分の信念に基づいて歩み続ける人である。ただし、そんな人に出遭うチャンスは一生のうちで一度あるかないかである。たとえ遭ったとしてもおのれが未熟であればその人の真の姿を理解できないだろう。私自身もこれはと思う人に出遭ったことがあるが全幅の信頼を置くまでには至らなかった。実に人生は難しい。
2019年7月の言葉 草木は雨降ればいきいきと輝く 人は善根を積むことで心豊かになる
梅雨明けの声はまだ聞かないばかりか、九州地方では豪雨による避難勧告が出ている。人類の歴史は、自然界を如何に人間の生きやすいように変えるかの歴史でもある。これだけ科学が進んでも自然災害だけは人間の思うようにはならない。否、生きやすい環境に慣れてしまって過酷な自然に対応できなくなって来ている。日照りが続けば雨を乞い、雨が続けば好天を願う。まさに人間の不遜そのものである。善根(ぜんこん)とは何か。自然界に生かされていると心に受け止めること、自分以外の存在(間ばかりでなく)と上手に折り合って生きること。自然の命ずるままに生きる。理想の生き方だと思う。
2019年8月の言葉 人を責めし後味の悪さに自(みずか)らを責め
この歳になると後味の悪い思いをすること頻繁である。いや、歳を取ったからこそ後味が悪い思いをするのかもしれない。最近、いつも自分が正しいと確信して人を責めて来た人生を思い返すことしばしばである。若さ故の傲慢さだったと思うと今更ながら赤面しても仕方がないが赤面の至りである。一歩退(しりぞ)いて、ひょっとして自分が間違っているんではないかと思う懐の深さを持てるようになるまでには沢山の苦渋を飲むこと、心にざらつきを感じ、不快に思う心を涵養することが大切である。
毎月の言葉を決め、私見を述べながら自分自身に言い聞かせている。人を責めたとき反論するのは若さ故だと今は思える。反論しないことが非を認めたことではないと気がつくまでに時間を要する。
人は過ちを犯す。問題は過ちだったと解ったときどうするかである。自分が間違っていたと素直に認めて深く反省し、謝るべきは謝り、一時も早く悔い改めることである。概して人は自らの過ちを認めることを躊躇する。絶対にしてはならないことは、その過ちを他人のせいにすることである。その行為は自らをおとしめ、信頼を失うことになる。過ちを認めることは決して恥ずべきことではない。しかし勇気のいることではある。その勇気が信頼を更に深いものすることを学んで欲しい。
2019年9月の言葉 旨い料理を食べることができるのは・・・
「旨い料理を食べることができるのは、誰かが土を耕し作物を育て、朝も昼もなく家畜の世話をし、荒海で漁をし、肉をさばくから。そのだれかは泥だらけになり、糞尿にまみれ、雨風や荒波を被り、手に傷を作り、汗を流す。食べ物を粗末にするなんて出来るわけがない。」
飽食の時代と言われて久しい。日本中で毎日何千万トンという食べ残しが廃棄されるという。異常な社会である。テレビをつけると食べ物番組の何と多いことか。食べきれないほどの食事を前にして、旨い、美味しい、めっちゃ旨いなどとのたまう。本来、食べ物を食べる行為、排泄をする行為は公にすべきではないと思う。食べ物は基本的に人間以外の他の生き物の命を奪って提供されている。他の生き物の命に感謝こそすれ、旨いなどと大声で叫ぶものではない。
自分は手を汚(よご)さないで、金を払うだけ。作物を育てることがどんなに大変なことか。土を耕し、種を撒き、草を取り、施肥し、収穫までにどれだけの人手を要するか。日照りの日も、雨の日も黙々と農作業をしてくれる人がいるから食事が食べられる。朝も昼もなく家畜の世話をし、糞尿を厭わず育ててくれる人がいるから美味しい肉が食べられる。牛や豚、鶏、馬、羊・・・いずれも人間と同じ生き物である。動物の命を絶ち、食肉として口に入るまでにどれだけの人の手を煩わしているのか。荒波の海に命をかけて魚を捕る。そんな人がいるから魚が食べられる。
人間とは如何に残忍な動物か。鶏をゲイジに閉じ込め夜には灯りをつけて四六時中卵を産ませる。虐待も甚だしい。鶏の悲痛な叫び声が聞こえないか。愛玩動物と称して、犬に首輪をつけて引き回す、挙げ句は洋服まで着せて得々としている。そんな人種は自分が首輪をつけられて引っ張り回されたらなんて考えも及ばない愚鈍の輩である。
マイクロプラスチックが問題になっている。人間の勝手な行為が他の動物を蝕んでいる。天に唾吐く行為はいずれおのれに帰って来る。経済効率を優先するあまり手軽で安価なプラスチックに手を染めたつけが回ってきている。法人の一部事業所では利用者さんの作業として新聞紙を使って買い物袋を作っていただき、パンや、卵の販売に使用している。お客様に好評である。今年の創立記念行事の食事にはこれまで何の疑いもなく使っていた使い捨てプラスチックの容器を止めリユース出来る食器に替えた。ペットボトルのお茶を止めコップに沸かした麦茶を冷やして提供させていただいた。また理事長の思いつきで苦労するのは私たちだ!職員の非難の声が聞こえてくるようだ。言い訳をさせてもらうと。決して思いつきなんかではない。新聞を読み、書物をひもとき、なるべく大所高所からものを見るように心がけている。ひとりひとりが出来るところから踏み出す一歩が大切である。
2019年10月の言葉 土壇場で逃げない人間でありたい!
「土壇場で逃げない人間でありたい!生きるか死ぬかというときも他人の事情を慮(おもんぱか)れる人もいれば、いつだって自分の事情しか頭にない輩(やから)もいる。」
今月の言葉を考え、コメント書きながらいつも考えることは同じである。偉そうなことを書いて果たして自分はどれだけ実行しているのかと。逃げたくなることは山ほどある。踏みとどまって一歩でも前に進もうとする気構えは一朝一夕では育まれない。様々な苦難に遭い、死を意識するような事態を経験して初めて踏みとどまることの大切さを知る。そのためには己に底力がなければだめだ。持ちこたえることが出来るとの覚悟は様々な経験を通して育まれる。言い訳は言わない。如何にしたら役に立てるか。自分が寄って立つ基盤がしっかりしていれば決してぶれない。他人(ひと)に頼りにされるということはそういうことだと思っている。
2019年11月の言葉 いつも今に全力投球
「人生は長いようで短い 1日が 1週間が ひと月が 1年が 瞬く間に過ぎる 悔いを残さないために毎日全力投球」
もう11月である。今年もあとふた月。76歳を迎え、残りがどのくらいあるのか、神のみぞ知るの心境である。とにかく朝目が覚めると今日も生きていることに感謝である。少しずつ意識的に仕事を減らし時間に追われない日常を送るように心がけている。人生の最終コーナーを走りながらゴールを目指す毎日である。おかげさまで自然豊かな環境に居を構え晴耕雨読を心がけている。9月に蒔いた大根が収穫出来て我ながら上出来だと思っている。白菜も順調に育っている。長ネギは売りに出しても恥ずかしくない出来である。農作業をするようになって季節の移り変わりに敏感なった。11月になってエンドウのの種を蒔いた。大根と違ってエンドウはなかなか芽が出てこない。野菜は種類のよって芽が出てくるのにかかる時間が違うことが解った。学習である。そして芽が出てきた時の感動は蒔いた人でなくては解らない。これから寒い冬を越して春に収穫するまで長い時を要する。スーパーに行けば直ぐ手に入るエンドウも種蒔きから収穫まで長い時を要するんだとわかるととてもエンドウ1個でも大切に思うようになる。自分で育ててみることで食べ物を大切にする心が育つ。芽が出た時の、立派に生育した時の感動が心を豊かにする。感動を求めて明日も全力投球だ!
2019年12月の言葉 悔しい思いをたくさん味わった人は味がある
”悔しい思いをたくさん味わった人は味がある。味のある人は魅力的である”
いよいよ師走を迎え今年も余すところ1ヶ月となった。2019年の今月の言葉も最後になった。今月の言葉を書き始めて長い歳月が過ぎた。最初は毛筆で書いて事務所の前の掲示板に貼っていたがある時期からワープロで打つようになった。ホームページを開設するようになってしばらくして"今月の言葉”の欄を設けコメントをつけるようになった。身延事業所、ふじかわ事業所、南アルプス事業所の掲示板に掲示して職員に読んでもらうようにした。ある時、理事長さんのブログ読ませていただいてます、という話を伺って、えっ職員だけではなくホームページを見た方が読んでくださっているんだとわかり、とても責任を感じた。しばらくしてある職員の方から更新してしまうと読み返しが出来なくて残念です、との言葉をいただき、2017年から現在のような形になりました。更新してしまったことはとても残念ですが、待っていてくださる方のためにも書き続けようと思っています。
さて、本題に入ります。この歳になりますとこれまで数え切れないほど悔しい思いを味わって来ましたが、最も新しい"悔しい思い”はあるスーパーマーケットでのことでした。買い物をしてレジを出たところで30代後半をおぼしき男性と接触してしまいました。男性が通路の真ん中にいたためぶつかってしまったのです。その時"すみません”と謝ればよかったのでしょうが、通路の真ん中に立っている方が悪いと思って黙って外に出てき来てしまったため、その男性が追いかけて来て罵声を浴びせかけられまた。”じじい謝れ!”と言われ一瞬言い返そうと思いましたが、確かに私はじじいだ。けんかになったら負けるなととっさに判断し"さきほどはすみませんでした”と詫びました。心の中ではもう"少し若かったら取っ組み合いのけんかになっていたな”と悔しい思いを噛みしめると同時にこの悔しさが自分にとって肥やしになるんだとの思いに至った。些細な出来事でしたがよい経験をさせていただきました。
2020年1月の言葉 疾風に勁草を知る
勁草(けいそう)とは強い草の意である。強風にもめげず折れずに立っている草。人生平坦な道ばかりではない。苦境に立たされ、厳しい試練に立ち向かわなければならない時が必ず訪れる。そこで折れてしまうか堅固な意思を持って乗り越えるか。人それぞれである。逆に言うならば疾風(激しい風)に耐えた人こそが真に強い人、魅力のある人というべきか。
私の少年時代(私にも可愛い少年時代がありました!)はどの農家も米の裏作に麦(大麦または小麦)を作っていました。大麦と小麦の違いがわかりますか?大麦は麦ご飯としてお米と一緒に炊きます。ずっと昔「貧乏人は麦を食え」との賜(たまわ)った総理大臣がいましたっけ。おっと、話が横道にそれてしまいました。最近では麦飯(麦ご飯と言わず麦飯(むぎめし)と言うところがまたいいですね)を食べる家庭なんてありますかね。麦とろの時くらいのもんですかね。麦とろって何ですか?えっ、麦にとろはありません!とろはマグトロです。だんだんわからなくなってきました。勁草とマグトロ、何の関係があるんだ!叱られそうです。そうです、麦の話でした。小麦は皮をむくと小麦粉になります。そうなんだ、小麦粉はうどんになり、大麦は麦飯になる。ちなみに、大麦を煎って粉にしたものを香煎(こうせん)と言い幼少時代は砂糖と混ぜておやつとして食べていました。またまた脱線!米は水田で作り、麦は水を張らずに乾いた田圃(たんぼ)や畑に作付けしました。麦は強いんです。なぜか?ようやく話が本題に近づいて来ました。10月に米の取り入れをしてその後に麦の播種をします。当然冬を越さなくてはなりません。深い雪の下でも凍(こごえ)えることなく春が訪れて雪が消えると青々とした麦が現れます。そしてもっと驚くべきは、麦の生長にとって欠かせない行程に麦踏みという作業があるとうことです。麦踏みって何だ!文字通り麦を踏む作業だ。エッ、麦折れちゃうよ。ご心配なく。麦は強いんです。踏む前より逞しくなって成長するんです。春の暖かな日差しの下(もと)田圃のあちらこちらでお年寄りや赤ちゃんをおんぶしたお母さんが麦の畝を蟹歩き(横向きに)で麦踏みをしている姿が微笑ましい風景として脳裏に浮かびます。踏まれて強くなる麦、まさしく勁草です。
いつの頃か農村の風景から麦踏みが消えてしまいました。高度成長期に入り、麦飯が食卓から消えて白いご飯が当たり前の世の中になってしまいました。米を供出(政府が買い上げる)に回して、自分たちは収穫した小麦を小麦粉にしてうどんを打ち食べる風習は当たり前でした。白米が食べられるのはお盆と正月に限られていた頃は日本人はもっともっと逞しかった。ほとんどの日本人が勁草であったように思います。
2020年2月の言葉 人生に正解はない
試験問題には正解があるが、人生には正解がない。学校時代に成績の良かった人が社会に出て成功するかというとそうでもない。だから世の中は面白い。学歴がなくても実力で社会を渡っている人はいくらでもいる。智恵と知識は基本的に異なる。知識が豊富であるに越したことはないが、智恵がなければ知識も宝の持ち腐れである。事に当たってどう対処するかはその人の知識と智恵にかかっている。楽をしようと思ってはいけない。「急がば回れ」である。人のまねをすることはない。自分の頭で考え実行に移すことである。他人(ひと)がどう思うかなんて考えなくていい。時には経験豊富な人柄の良い人生の先輩の意見を聞くことも必要かもしれない。しかし最後の決断は己(おのれ)がする。そして決断したことがうまくいかなくても他人(ひと)のせいにしてはいけない。うまくいかなかったときは何故うまくいかなかったかしっかり反省する。そして次に進む。それが人生である。失敗が肥やしとなって人間が出来て行く。失敗が人を作る。魅力的な人は失敗を重ね、めげずに立ち上がって来た人だ。昨日より今日、今日より明日。ステップを上がる努力を怠らないことだ。それぞれが志を大きく持って次代を担う人になって欲しい。今月の言葉は深敬園の職員への応援歌である。損得を考える前に先ず踏み出すことだ。
2020年3月の言葉 商売は物を売り買いしているように見えるが、実は信用を売り買いしている
地域貢献店舗「いきいき村」を開店して1年が過ぎた。当然のことながら赤字である。商店であれば赤字の商売は成り立たない。かつて国は社会福祉法人に対して、儲けてはいけない地域社会に貢献するのが当たり前だと言った。当時一部の社会福祉法人の内部留保が問題になった。理事長が自分の懐を肥やしていることも指摘された。では、何をすれば地域に貢献することが出来るか。富士川町にパンとランチのお店「ふじかわどりいむ」を開き、モーニングが200円、ランチが500円で提供することで地域の皆さんに喜んでもらえるサービスを提供して4年が過ぎた。まだまだ黒字とまでは行かないがそこそこ繁盛するようになった。お客様にも喜ばれている。ご縁をいただいて700mほど先の追分交差点の近くに「いきいき村」を開店した。このお店はいわゆる事業承継である。閉店の計画を聞いた時、正直また商店街から店舗が消える、と思った。地元の農家さんが手作りの野菜を納品して、それを地域の人たちが購入するというお店だった。