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社会福祉法人 深敬園
〒409-2524
山梨県南巨摩郡身延町身延3637
TEL.0556-62-1134
FAX.0556-62-1135
・障害者トータルサポートセンター
      かじか寮 
・就労継続B型 
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・居宅支援サービス
      福祉ネットスマイル
・居宅介護支援事業所
      かじかサポート
・訪問看護ステーション
      かじかナースステーション
 
      
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今月の言葉

2019年4月の言葉 空を見上げ 雲を 月を 星を・・・

 空を見上げ 雲を 月を 星を 大地を見つめて 足元の虫や草花を 山を仰ぎ 移り行く季節を 鑑賞することで 「私の存在を」認識し 感性を養おう
私たちはゆっくりと空を見上げたことがあるだろうか。だれもが一週間、一月(ひとつき)、一年が瞬く間に過ぎると口にする社会である。何故だろうと考えた時、時間に追われ慌ただしく働いてる自分がいることに気付く。休みを取っても、どこかに出かけると1日がアッという間に過ぎる。何もしないで1日をゆったりと過ごすことが出来ない体になってしまっている。そんな環境から抜け出さない限り「私の存在」を認識することなど出来ない。
 私は、夜空を見上げて星を眺めることを習慣にしている。最近はスマホで夜空の星にかざすとその星の名前が表示される便利なアプリがある。是非試して見て下さい。きっと星を眺めることがすきになりますよ。

2019年5月の言葉 ひとが生きるとは 与えられた宿命をおのれが選び取ったものとして歩み続けること

 人生とは、人として生きることである。人としてどのように生きるかは、自分自身が考え、判断し、決めなければならない。自分が選択した生き方を宿命として受け止め、日々努力を重ねることである。他人と比較して優劣を競うものではない。努力が報われるとは限らない。むしろ報われないことの方が多いかもしれない。しかし、報われなかったからといって他を恨(うら)やみ嫉(そね)むのはお門違いである。
 評価されようがされまいが、自分の信念に従って粛々と生きることである。人生には正解はない。「論語」には、15にして志学、 30にして而立、40にして不惑、50にして知命、60にして耳順、70にして従心とある。このことは今の時代においても当てはまることだと思う。30歳は一人前の大人として社会で生きていくことが出来なければなりませんし、40歳はそれまでの経験を生かして確固とした人生を築き上げる。40歳になっても迷っているようでは困ります。そして50歳で天命を知る、自分がこの世に生まれてきた使命、つまり己の宿命を知ることです。そこから先はただひたすら宿命に従ってい命ある限り生き抜くことだと思います。
 さあ、令和が始まりました。心新たに明日に向かって生きようではありませんか。

2019年6月の言葉 尊敬できる人に出遭い その人のためならすべてを擲(なげう)っても悔いはないと思える人生

 両親のもとに生まれ、家庭という環境の中で社会に出て一人前に生きていくすべの第一歩を歩み出す。学校、地域社会、職場とその時々で様々な出会いがある。自分の人生という船の船長は自分である。航路を決めるのも、速度を決めるのもすべて自分の責任において行わなければならない。
 人生という未知の世界を進む上で、その人のためならすべてを擲っても悔いはないと思える人との出会いがあったら迷わず師と思い共に歩むことである。その人は様々な苦難に遭いながらも挫けず生き抜いて来た人である。決して威張らず、誇らず、黙々と自分の信念に基づいて歩み続ける人である。ただし、そんな人に出遭うチャンスは一生のうちで一度あるかないかである。たとえ遭ったとしてもおのれが未熟であればその人の真の姿を理解できないだろう。私自身もこれはと思う人に出遭ったことがあるが全幅の信頼を置くまでには至らなかった。実に人生は難しい。
 

2019年7月の言葉 草木は雨降ればいきいきと輝く 人は善根を積むことで心豊かになる

 梅雨明けの声はまだ聞かないばかりか、九州地方では豪雨による避難勧告が出ている。人類の歴史は、自然界を如何に人間の生きやすいように変えるかの歴史でもある。これだけ科学が進んでも自然災害だけは人間の思うようにはならない。否、生きやすい環境に慣れてしまって過酷な自然に対応できなくなって来ている。日照りが続けば雨を乞い、雨が続けば好天を願う。まさに人間の不遜そのものである。善根(ぜんこん)とは何か。自然界に生かされていると心に受け止めること、自分以外の存在(間ばかりでなく)と上手に折り合って生きること。自然の命ずるままに生きる。理想の生き方だと思う。

2019年8月の言葉 人を責めし後味の悪さに自(みずか)らを責め

 この歳になると後味の悪い思いをすること頻繁である。いや、歳を取ったからこそ後味が悪い思いをするのかもしれない。最近、いつも自分が正しいと確信して人を責めて来た人生を思い返すことしばしばである。若さ故の傲慢さだったと思うと今更ながら赤面しても仕方がないが赤面の至りである。一歩退(しりぞ)いて、ひょっとして自分が間違っているんではないかと思う懐の深さを持てるようになるまでには沢山の苦渋を飲むこと、心にざらつきを感じ、不快に思う心を涵養することが大切である。
 毎月の言葉を決め、私見を述べながら自分自身に言い聞かせている。人を責めたとき反論するのは若さ故だと今は思える。反論しないことが非を認めたことではないと気がつくまでに時間を要する。
 人は過ちを犯す。問題は過ちだったと解ったときどうするかである。自分が間違っていたと素直に認めて深く反省し、謝るべきは謝り、一時も早く悔い改めることである。概して人は自らの過ちを認めることを躊躇する。絶対にしてはならないことは、その過ちを他人のせいにすることである。その行為は自らをおとしめ、信頼を失うことになる。過ちを認めることは決して恥ずべきことではない。しかし勇気のいることではある。その勇気が信頼を更に深いものすることを学んで欲しい。

2019年9月の言葉 旨い料理を食べることができるのは・・・

 「旨い料理を食べることができるのは、誰かが土を耕し作物を育て、朝も昼もなく家畜の世話をし、荒海で漁をし、肉をさばくから。そのだれかは泥だらけになり、糞尿にまみれ、雨風や荒波を被り、手に傷を作り、汗を流す。食べ物を粗末にするなんて出来るわけがない。」
 飽食の時代と言われて久しい。日本中で毎日何千万トンという食べ残しが廃棄されるという。異常な社会である。テレビをつけると食べ物番組の何と多いことか。食べきれないほどの食事を前にして、旨い、美味しい、めっちゃ旨いなどとのたまう。本来、食べ物を食べる行為、排泄をする行為は公にすべきではないと思う。食べ物は基本的に人間以外の他の生き物の命を奪って提供されている。他の生き物の命に感謝こそすれ、旨いなどと大声で叫ぶものではない。
 自分は手を汚(よご)さないで、金を払うだけ。作物を育てることがどんなに大変なことか。土を耕し、種を撒き、草を取り、施肥し、収穫までにどれだけの人手を要するか。日照りの日も、雨の日も黙々と農作業をしてくれる人がいるから食事が食べられる。朝も昼もなく家畜の世話をし、糞尿を厭わず育ててくれる人がいるから美味しい肉が食べられる。牛や豚、鶏、馬、羊・・・いずれも人間と同じ生き物である。動物の命を絶ち、食肉として口に入るまでにどれだけの人の手を煩わしているのか。荒波の海に命をかけて魚を捕る。そんな人がいるから魚が食べられる。
 人間とは如何に残忍な動物か。鶏をゲイジに閉じ込め夜には灯りをつけて四六時中卵を産ませる。虐待も甚だしい。鶏の悲痛な叫び声が聞こえないか。愛玩動物と称して、犬に首輪をつけて引き回す、挙げ句は洋服まで着せて得々としている。そんな人種は自分が首輪をつけられて引っ張り回されたらなんて考えも及ばない愚鈍の輩である。
 マイクロプラスチックが問題になっている。人間の勝手な行為が他の動物を蝕んでいる。天に唾吐く行為はいずれおのれに帰って来る。経済効率を優先するあまり手軽で安価なプラスチックに手を染めたつけが回ってきている。法人の一部事業所では利用者さんの作業として新聞紙を使って買い物袋を作っていただき、パンや、卵の販売に使用している。お客様に好評である。今年の創立記念行事の食事にはこれまで何の疑いもなく使っていた使い捨てプラスチックの容器を止めリユース出来る食器に替えた。ペットボトルのお茶を止めコップに沸かした麦茶を冷やして提供させていただいた。また理事長の思いつきで苦労するのは私たちだ!職員の非難の声が聞こえてくるようだ。言い訳をさせてもらうと。決して思いつきなんかではない。新聞を読み、書物をひもとき、なるべく大所高所からものを見るように心がけている。ひとりひとりが出来るところから踏み出す一歩が大切である。
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